概要
標高70~80m、奥羽山脈から派生した南東方向に伸びる丘陵上に立地する古墳群。東西約250mの範囲に直径3~7m前後の小円墳が40基以上分布する。1971(昭和46)年に3基の発掘調査が実施され、蕨手刀や勾玉、管玉、鉄鏃、土師器、須恵器などが出土した。7世紀末~8世紀前半の築造。県指定史跡、1985(昭和60)年指定。

標高70~80m、奥羽山脈から派生した南東方向に伸びる丘陵上に立地する古墳群。東西約250mの範囲に直径3~7m前後の小円墳が40基以上分布する。1971(昭和46)年に3基の発掘調査が実施され、蕨手刀や勾玉、管玉、鉄鏃、土師器、須恵器などが出土した。7世紀末~8世紀前半の築造。県指定史跡、1985(昭和60)年指定。
| 所在地 | 宮城県栗原市栗駒猿飛来鳥矢ケ崎 |
|---|---|
| 築造時期 | 時期不詳 |
| 墳丘形状 | 不詳 |
| 墳長 | - |
| 後円部 | - |
| 前方部 | - |
| 出土品 | - |
| 棺 | - |
あの学舎で学んだ身として、こんなにも素晴らしい政治家が同じ地から生まれたなんて。心が熱くなる思いだ。
蕨手刀まで出てきたとは!宮城でこれが見つかるのは珍しい。和泉沢古墳群との2地点なのか。となると伊治公呰麻呂、渡来人だった説が浮上するな。
鳥矢ヶ崎という呼称の由来が謎だ。地域は鳥矢崎なのに、なぜ古墳名は別なのか。詳しい方の説明が欲しい。栗駒町の鳥矢崎猿飛来丘陵には44基の円墳が密集している。昭和46年、東北大の高橋富雄教授が調査に入った。発掘では中央型埋葬(2号墳)と辺境型埋葬(1号墳)の対比が見えた。1号墳からは馬具が、2号墳からは金銅製帯金具が出た。後者は位階持ちの証。つまり2号墳は伊治公呰麻呂の埋葬地だったわけだ。 --- 地名と古墳名のズレに気づいた人がいるんだ。昭和46年の東北大調査で44基の円墳群が明かされた。中央型と辺境型という埋葬形式の違いが特筆される。1号墳の馬具、2号墳の金銅製帯金具。後者は身分を示す品物だ。だから2号墳は伊治公呰麻呂のものだと判明した。 --- 古墳名って複雑だな。鳥矢崎地域に44基の円墳があるんだけど、呼び方がちょっとズレてる。東北大が発掘した時の成果がすごい。2基の重要な墳墓を調査して、埋葬形式の違いと副葬品を記録した。金銅製帯金具が出た2号墳は高位の人物のもの。
これは問題ないか。看板の表現が曖昧過ぎる。さらに看板作成者は大化以降の視点に偏っているのでは。4~5世紀からこの地にいた蝦夷の系統と後発移住者とは明らかに異なるのに、地元はなぜその差を無視するのか。