概要

「安心院町宮ノ原遺跡」(安心院町教育委員会 1984年3月31日)記載の第8石棺群が発見されている(p.91)。 魏志倭人伝にある径百余歩(直径約150m)の卑弥呼の巨大円墳の候補。 詳細は、「邪馬台国は安心院(あじむ)にあった!」 https://blog.goo.ne.jp/katumoku10/e/74f785bb3cd854bd03b8ab8031ab7dc6 をご参照ください。

基本情報

所在地大分県宇佐市安心院町下毛
築造時期時期不詳
墳丘形状不詳
墳長-
後円部-
前方部-
出土品-
-

みんなの口コミ

19
  • guest2025/08/03

  • guest2025/07/30

    箱式石棺群を墳丘に持つ古墳の話である。現状の位置に石棺墓群があれば類例のない古墳となり、調査結果に基づく推論はそこまでだ。原位置不明として調査結果を否定し、発見石材が全て繋がり巨大石室になるという説は根拠がない。そもそも卑弥呼の墓は「棺あって郭なし」であり、石室の存在は許されず、時代も後ずれして弥生時代の墓ではない。石棺墓群が原位置にあれば古墳の否定材料で、丘上起源説は根拠を欠く。考古学会・史学会で郷土史研究会を運営し、定期研究会開催と学芸員招聘を行いながら日々成果を積み重ねている身として、想像の積み上げとは手法を異にする。この記事の不適当性が指摘点であり、貴下の持論の妥当性判断は範外である。

  • guest2025/07/30

    当ブログはgooブログの終了に伴い、はてなブログへ完全移行を進めている。現在、過去記事の転載は概ね完了しているものの、記事間リンクの張り替え作業が進行中であり、旧ブログへのリンク箇所は11月以降にエラーとなる見込みだ。その際は新ブログ内の検索機能で目的の記事を探していただきたい。新着記事はすべてはてなブログにて更新しているため、今後はそちらをご利用いただきたい。なお、新ブログのURL は https://katumoku10.hatenablog.com/ である。

  • guest2025/07/30

    虎ヶ岳の頂上に残る自然石は祭祀遺跡の特徴であり、古墳への転用例がないというご指摘は納得できる。駐車場の立石群が環状列石を構成していたと想定していたが、佐田京石からの運搬によるものとは考え及ばなかった。貴重な指摘をいただき感謝する。魏志倭人伝における卑弥呼の埋葬記述「大作冢 徑百餘歩 狥葬者奴碑百餘人」と環状列石の存在は確かに齟齬をきたすが、卑弥呼埋葬後に大国主と台与が訪れて岩石祭祀を行ったという仮説であれば、倭人伝に具体的な記載がなくても矛盾しない。虎ヶ岳頂上の鎖および「おおいたの古墳と神社」に関する見解も了解した。貴兄の見方を理解することができた。今後の検討はブログを通じてお願いしたい。

  • guest2025/07/30

    複数の石棺が存在した事例は確認されているが、現状では破壊されているため詳細は不明である。

  • guest2025/07/29

  • guest2025/07/29

    刮目天様へお返事申し上げます。箱式石棺墓群について、墳丘上への伴出例は存在せず、虎ヶ岳上に本来所在したという根拠も欠けている。仮に別所から移動したものだとしても、貴殿が主張する巨大箱式石棺様岩石との関連性をいかに説明されるのか不明である。径百歩が魏志倭人伝の記述と合致することをもって卑弥呼墳墓と見なされているが、同書は複数被葬者の存在を示していないため矛盾が生じる。加えて虎ヶ岳頂部に残存する自然石は祭祀遺跡の特徴を示すもので、古墳への転用例は知られていない。三女神社石棺との対応から虎ヶ岳が古墳であるとするお説については、因果関係が成立しておらず理解できない。むしろ三柱石所在の丘を三柱山と認識されない点こそ疑問である。旅行村駐車場の環状列石は佐田京石から移設されたもので、虎ヶ岳由来ではない。環状列石を伴う墳丘なら魏志倭人伝の内容と乖離する。頂上の鎖は松本清張の卑弥呼墳墓説に基づき整備中止の表示として設置されたものである。当該書籍は考古学的根拠に乏しく引用価値も限定的であるが、旅行村案内版と地元見解が記載されていたため参照した。貴説への直接的反論は控える

  • guest2025/07/29

    先ほど教えてもらった資料は安心院町史ではなく1970年発行の「安心院町誌」だったのだ。国会図書館で見られるらしいので活用する予定である。松尾則男の「おおいたの古墳と神社」も地域の図書館にはなく、近々国会図書館で直接調べるつもりでいる。何か新しい情報を掴んだら知らせるつもりだ。もし差し支えなければ、ブログに立ち寄って意見交換していただけると幸いである。よろしく頼む。

  • guest2025/07/29

    大国主は巨石に魅了される人物で、安心院町佐田地区の米神山麓にある佐田京石は日本随一の環状列石として知られている。卑弥呼没後の動乱を制した報恩と国家建設の祈りが込められていた可能性が高い。佐田川の葦原を耕作地に変えて豊葦原瑞穂の国を創出した場所こそここだと推定している。佐田神社の祭神表記は後世の伝承を隠蔽する装置であり、出雲国二ノ宮佐太大社が主祭神とする猿田毘古大神は大国主の別身に他ならない。米神山中腹の月の神谷で複数の石棒が一点を示す現象を検出し、大国主の父で倭国大乱を主導した日高彦の最期の地である菊池川流域の台地に茶臼塚古墳を確認した。驚くべきことに、この古墳から米神山を経て約八十キロ、さらに本拠地へと約四百キロの北東方向に、大国主誕生の記念碑を発見している。この幾何学的配置を霊ラインと称しており、スサノヲの霊ラインも検証済みである。

  • guest2025/07/29

  • guest2025/07/29

    古墳の墳頂部に箱式石棺を伴う事例は少なくなく、堂ノ山箱式石棺墓や亀塚古墳、祇園山古墳などがその証拠である。したがって虎ヶ岳の8群が古墳ではないという論拠は成立しない。昭和59年の調査報告書は伝聞に基づいて複数の石棺群と記載したが、実際には一組分の箱式石棺部材と、墳頂付近の蓋状石板数枚が存在したにすぎない。これらの状況から三柱山古墳を卑弥呼の墓と判断している。旅行村造成時のスライダー工事によって石棺が破損・移動した可能性が高く、重い蓋は工事現場に据え置かれて鎖と杭で保護されたと考えられる。国土地理院に保存されている70年代の工事写真からも、南側から石棺が出現する地理的根拠は薄いと判断する。

  • guest2025/07/29

    三柱山が卑弥呼の墓であるという根拠は、墓の遥拝所とヒカケ横穴の存在に求められるところが大きい。魏志倭人伝の径百余歩の冢と合致し、日本書紀の宗像三女神の記述と照らし合わせるとその可能性は極めて高くなる。理系研究職での経験を活かしアブダクションという推論手法で古代史を検証してきた結果、従来の通説とは異なる仮説にたどり着いた。矢野武夫氏も卑弥呼を宗像女神と見なしており、宮ノ原を居城とする認識で一致している。一柱謄宮への改葬は大国主と台与による鎮魂祭祀の場であると推測される。妻垣神社はスサノヲとイナダヒメの伝承に名を由来するが、このヤマタノオロチ譚は出雲国風土記に見当たらず、スサノヲが既に奴国宮廷楽師らに討たれた後の創作である。日本書紀は神武東征の物語の中で一柱謄宮を位置付け、イワレヒコが玉依姫の墓参に立ち寄った地として記しており、ウサツヒコとウサツヒメの歓待により藤原氏の祖神への系譜を称揚している。しかし実態はウサツヒコが大国主で、ウサツヒメは十三歳で女王となった台与であり、これは応神天皇の皇位継承を隠蔽するための編纂である。

  • guest2025/07/28

    ご指摘ありがとうございます。ただ重要な点として、邪馬台国や卑弥呼の墓の議論に入る前に、二つの基本的な問題があると考えます。一つは当該地の地名そのものの誤記であり、もう一つは虎ヶ岳が考古学的に古墳と認定されていないという事実です。これら前提条件の検証なしに先へ進むべきではないと思われます。もし私の認識に誤りがあれば、該当する根拠資料をお示しいただきたい。

  • guest2025/07/28

    刮目天様へ。ご指摘の資料は他者著作のため掲載不可であり、当サイトは個人の主張場ではなく客観的事実の提示に徹するべき場である。国会図書館サーチで入手可能なため、直接調査されたい。さて事実を述べる。この丘を三柱山と呼んだのは貴殿のみで、正式名は虎ヶ岳である。発掘報告書の第8群は喫茶店裏の箱式石棺墓群だが、墳丘に複数石棺を伴う古墳例は稀であり位置も特異だ。むしろ第8群の存在が虎ヶ岳が古墳でない証左となる。報告書では周辺の遺物確認地は図示されるが虎ヶ岳は記載されず、専門家見地からも遺物確認は されていない。露頭を松本清張は石室と推測し貴殿は石棺蓋と見なすが、この地に石切り場があった記録が存在する。すべての事項において三柱山の呼称も古墳という事実も学術的確認がないのが現状である。本サイトは自説展開や討論の場ではない。未確認地を古墳と記載し別地との混同を放置することは、訪問者に誤解を招く不適切な行為である。

  • guest2025/07/26

    三柱山古墳は卑弥呼埋葬地を示す複数の物理的証拠で結びついている。247年の魏志倭人伝記載時期と一致する直径150m規模の円形墳丘、殉葬奴婢の痕跡を留める「血野」地名、南方400m河原の遥拝施設としての三女神社、視認を遮る人工盛土と日食関連の横穴群配置などが全て符合する。これらは単なる地名の一致ではなく、卑弥呼の実在と当該地での埋葬を知る地元民が設置した馬頭観音石像のような物質的記証によって裏付けられている。社殿の摂社構成から、金毘羅宮の大物主は大国主を指し、八束神社の八束水臣津野神は宗像海人族の系統を示している。この系譜追跡により卑弥呼は八束命の姫を母とする赤坂比古の娘、すなわち市杵島姫命であり、日本書紀で宗像三女神として隠蔽された和邇氏姫巫女として同定される。奥城古墳被葬者は父赤坂比古、以降の和邇氏は4世紀に皇妃輩出豪族として全国展開し、宗像・厳島・弁財天宮などで祀られ続けている事実が系統の確実性を示しており、三柱山古墳は卑弥呼墓の最有力比定地である。詳細は【刮目天の古代】卑弥呼の謎を参照されたい。冒頭にて

  • guest2025/07/26

  • guest2025/07/25

    松本清張の推測は知られていますが、根拠の検証が必要です。宇佐市の現在の史跡地図に当該位置の記載はなく、旧資料の安心院町史でも三柱山古墳は別所に位置付けられています。提示されたリンク先の発掘調査報告書には、その丘について遺跡あるいは遺物検出地点としての記載がまったくありません。小字「三柱」も当該地点には該当しません。町史に記載される三柱山古墳は奥城古墳の南東にあり、三女神社台地との同一地点で「三柱山遺跡」と併記されているため、三柱山は三女神社の丘を指します。現遺跡地図では宮野原遺跡(登録番号211174)として集落・墳墓の区分で登録され、三柱山、不動山、ヒカケ、倉谷山の石棺群を含みますが、旅行村敷地および指摘の丘は範囲外です。清張が言及した当時、その丘は虎ヶ岳と呼称されていた事実からも、三柱山と古墳を主張するのは提示者のみです。遺物・文献いずれの根拠も存在しないため、当該記事の再検討が適切と考えられます。

  • guest2025/05/18

  • guest2024/10/06

    周辺で見つかった石棺墓は点在しているだけで、古墳という確たる証拠には至らず、遺物も遺構も何も出ていない状況から、地表の形状を手がかりに推測しているに過ぎない。