概要
「一陽来復」のお札授与で知られる穴八幡宮は、もともと八幡山の小祠であった。江戸時代に入ると、早稲田に居住する幕府の御持弓組頭松平直次がこの地に的場を築き、射芸の守護神として高田八幡宮を奉祀した。その後、寛永18年(1641)、社僧が草庵造営のために南側の山裾を切り開いたところ横穴が出現し、2坪ほどの奥室において遺骨2体と金銅阿弥陀像が発見されたことから、この時より穴八幡宮と称されるようになったとのことである。阿弥陀が八幡大菩薩の本地仏であったため、その出現によって神社の威光がより一層高まったとみられる(江戸時代は神仏混交)。 この横穴は古代の墓地であり、江戸以前にも一度発見され、遺骨の供養のために阿弥陀像を安置したという説も存在する。現在、この遺構の前には同神社の「出現殿」が設置され、内部は非公開となっている。落合学人は色々な考察を行い、この出現窟の東の崖線沿いに江戸時代には弁天洞と氷室という2つの横穴が存在したことを明らかにしている。 この付近は戸塚と呼ばれ、これは富塚や十塚に由来するとも伝えられており、古墳群を想起させる地名である。実際、付近のグランド坂上の道路工事では円墳の周溝2基が検出され、そこから北西側にかけて周溝墓が発掘調査されている。また、神田川上流の落合でも横穴墓が発見されていることから、この出現窟もまた古代の横穴墓ないし古墳横穴である可能性が示唆される。
